歴史を知りたい

旧石器時代

日本列島ができるまで

○今から約2400万年前、地質年代でいう新生代第三紀中新世のころは、 地殻変動が活発で、はげしい火山活動があった時期で、栃木県は、足尾や八溝山地を除いて大部分が海に沈んでいました。 大谷石として全国的に有名な緑色凝灰岩は、このころのはげしい海底火山の噴火によってふき出した火山灰が、海底に堆積してできた岩です。

○大谷石層の堆積に続き、横山・長岡・山本・大曽に見られる薄緑色から茶白色のやわらかい岩が堆積します。 八幡山公園あたりは、今から1200万年前のものと考えられる砂岩・泥岩層がみられますが、 二枚貝やサメの歯、クジラ(?)の骨が発見されていることから、このころは、まだ比較的温暖であったと考えられます。人類が誕生するはるか以前の地層です。

旧石器時代の宇都宮

○人類の祖先がこの地球上に現れるのは、約500万年前とされています。また、日本人の祖先がこの日本列島に渡ってきた時代は、 約3万年前、新生代第四紀更新世の氷河時代で、非常に寒い気候がつづいており、最も寒い時期には、 地球上の3分の1が氷でおおわれていたようです。

○氷河期の終わりころは、海面が今より100~150mも下がっており、日本と大陸は地続きでした。 このため、大陸に住むナウマンゾウオオツノジカなどの動物が日本に渡ってくるのを追いながら、 人類も移り住んできたのだろうと考えられています。また、現在のインドネシア付近から、 東アジアの人々の祖先となった人々も黒潮の流れに乗って北上し、日本列島にやってきたと考えられています。

○旧石器人は優れた狩人でした。関東ローム層と呼ばれる赤土の中からは、頁岩黒曜石などで 作られた石器が発見されることがあります。これらは、広い原野に動物を追って山や野を移動しつづけた人の生活を物語ってくれます。

○国指定史跡飛山城跡の発掘調査では、約3万年前につくられた、けものをとるための落とし穴の跡が発見されました。 宇都宮にも、旧石器人の生活のあとが残されているのです。

○以前は、旧石器人は洞くつとか岩かげなどを利用して生活していたと考えられていましたが、決してそうではありません。 宇都宮市内の遺跡の発掘調査では、台地の上や山の斜面に小屋を建てて住んでいたことがわかっています。

○氷河時代がおわると、気候が温暖化するのにしたがって海面が上昇し、今から約1万2千年前には、おおむね現在の日本列島が形成されました。 また、これと時期をほぼ同じくして、火山の噴火活動もおさまってきたようです。

縄文時代

縄文時代の宇都宮

○今から1万年ほど前になると、土器を作り、本格的な弓矢をもった新しい時代が登場します。 世界でも珍しい縄目の文様をもった縄文土器が使われたので、これから紀元前300年頃までを縄文時代と呼びます。

○この時代は、動物や魚、植物をとってくらす生活が中心です。しかし、これらを生か焼いて食べる方法しか知らなかった旧石器時代とくらべ、 土器を使った調理や保存の方法が非常に発達しました。弓矢は、それまでの投げやりにくらべ、遠くへ正確に命中させることができるようになり、 個人の力だけでけものを捕らえることができるようになりました。

○一口に縄文時代といっても、約8000年もの長い期間に、気候や動植物の様子もさまざまに変化したようです。 縄文時代は古い順から草創期(1万~8000年前)・早期(8000~6000年前)・前期(6000~5000年前)・中期(5000~4000年前) ・後期(4000~3000年前)・晩期(3000~2300年前)の6つの時期に大きく分けられます。

○草創期には、大谷寺洞穴遺跡のように狭い洞くつや岩陰を利用して生活する場合と、広い台地の縁辺に 竪穴住居を建てて住む場合とがありました。

○早期になると,気候が温暖になりつつあったためか,広い土地に集落を作るようになり,生活の安定にともなって集落の規模が拡大していったようです。

○前期までは、さらに気温が上昇して氷河がとけて海水が増加したため、海岸線は栃木県南部にまで押し寄せていました。 これを縄文海進といいます。藤岡町や野木町では貝塚が発見されていますが、そこからは海の貝が見つかっています。

○生活環境に恵まれたこの時期は、人口も増加して大きな集落が生まれる一方、根古谷台遺跡のように、 いくつかのムラが集会やまつりを行ったと考えられるような、特別な集落も発達しました。

○中期になると、縄文人の生活は安定し人口はますます増加したので、竹下遺跡御城田遺跡などのように大きな集落が形成されました。 この時期は、豪華な文様がついた芸術的な土器が多く、土器の黄金時代ともいわれます。

○縄文時代も後期から晩期になると、中期ごろから始まった気候の寒冷化と、増えきった人口を養うだけの食料を求めることができなかったためか、 集落は次第に小規模になる傾向が見られます。

○しかし、宇都宮周辺は山の幸・川の幸が豊かであったため、石川坪遺跡刈沼遺跡のような集落がたくさん見られます。 また、土偶石棒など、まじないに用いていたと考えられるものが見られるのもこの時期の特徴です。

弥生時代

弥生時代の宇都宮

○大陸文化の影響を受けて、九州北部に稲作と青銅器鉄器を使う新しい文化が誕生したのは紀元前300年ころでした。 この時代には、縄文土器よりもうすくて赤みをおび、形の整った弥生土器が使われるようになりました。

○日本列島は、梅雨の季節とそれに続く高温多湿な夏があるため、稲作に適した自然条件でした。このため、 100年もたたないうちに西日本一帯に広がり、ついで関東や東北地方へと広がっていきました。人々は、低地や湿地を水田に変え、 もみをたくわえるため、住まいとしての竪穴住居とは別に高床の倉庫を建てました。

○稲作は、水を引く技術や集団作業が必要だったので、これらを指図する人が現れ、ムラをおさめました。また、貧富の差が生まれ、 土地や水をめぐる争いがおこり、柵(さく)や濠(ほり)で囲まれた環濠集落が生まれました。有力なムラは周りのムラを従えて勢力を広げ、 小さな国となりました。中国の古い歴史書には、紀元前1世紀には100あまりの国があったことが記されています。

○宇都宮に弥生文化が伝わったのは、紀元前100年頃です。しかし、市内にある弥生時代の遺跡はわずか30箇所にすぎません。 その理由としては、東日本に適した稲の登場に時間がかかり、稲作が十分に発達しなかったことと、弥生時代が短い期間であったことがあげられます。

○弥生時代中期の遺跡に山崎北遺跡があります。ここでは、3軒の竪穴住居跡と数基の土坑しか確認されていません。この時期の集落は、数件程度の小規模なものだったようです。

○また、野沢遺跡では、弥生土器の特徴である壷や甕といった土器が発見されていますが、縄文土器とそっくりの文様がついています。 これらの土器は、栃木県のこの時期の土器の標識となっており、野沢式土器と呼ばれています。土器の中にはモミつぶの跡が残っているものがあり、 稲作が行われていたことをしめしています。さらに、人面付土器勾玉管玉が入った土器も発見されています。これらは、 関東から東北地方南部にかけて見られる再葬墓という特殊なお墓として使用されたものと考えられています。死者をいったん土葬などにして白骨化させ、 その骨を拾って土器の中におさめ、直径1mほどの穴に土器をいくつかまとめて埋葬するものです。

○弥生時代後期の遺跡は、平野部に多く見られます。宇都宮市南部の田川・姿川とその支流に水田を開き、近くの台地上に多くの集落を作って住むようになりました。 これは、本格的な稲作が行われていたことを示すものです。二軒屋遺跡で発見された土器は、栃木県から茨城県西部に分布している標識とされています。

○3世紀になると、中国の古い歴史書に日本にあった邪馬台国に関する記録が残されています。邪馬台国については、その所在地など、まだまだ不明な点が残されていますが、小さな国がしだいに大きな国にまとまっていった様子がわかります。

古墳時代

古墳時代の宇都宮

○今から1750年くらい前、現在の奈良県を中心とする近畿地方に古墳が現れました。 これから350年くらいの間を古墳時代といいます。古墳は一定の地域を治めた首長の墓と考えられています。

○古墳の出現は大和政権と深い関係があると考えられています。大和朝廷による国土統一は、 3世紀後半からほぼ100年の間に急速に進められ、 国土の大半を統一していきました。その勢力が日本各地におよぶと、地方の首長たちはその支配下に入って古墳を築くようになったのです。

○4世紀になると、宇都宮でも南部の茂原地区に3基の前方後方墳が造られます。 その中の茂原愛宕塚古墳では、日本で作られたや管玉、ガラス製小玉刀子などが見つかっています。

○5世紀代になると、各地に多くの古墳がつくられるようになります。代表的な古墳に、全長約100m、高さ10.5mにおよぶ 市内最大の前方後円墳である笹塚古墳や、やや遅れてつくられた塚山古墳があります。前方後円墳は日本特有の形であり、 大和朝廷との結びつきが強くなったことを意味しています。塚山古墳群では、鹿の絵がついた埴輪棺が出土して話題となりました。

○笹塚古墳の近くでは、同じ時期の豪族居館や、竪穴住居が集まった大きな集落跡が発見され注目されました。 田川流域の開発を行った首長とそれを支えた民衆の生活ぶりを知る大きな手がかりとなりました。

○宇都宮にある古墳の多くは6世紀代、古墳時代後期のものです。この時期に古墳が激増したのは、大和朝廷による地方の支配が強くなるにしたがって、 小さな集落の長までも古墳を造ることができるようになったからだと考えられています。また、北山古墳群のように、 このころの古墳には横穴式石室が用いられるようになります。これによって、生前から古墳を造っておくことや、身内の者の追葬が可能になりました。 この時期につくられた瓦塚古墳は、古墳の表面に石がふかれ、多くの埴輪(はにわ)が並んでいました。

○古墳時代の人々は、竪穴住居に住んでいました。はじめは、縄文時代から使われてきたを家の中にもうけて煮炊きをしていましたが、 古墳時代中期からしだいにカマドが用いられるようになりました。カマドが使用されるようになると、甕(かめ)にをのせて 穀物を蒸すことができるようになりました。これは、水田の発達と米食の広まりを意味しています。

○古墳時代の土器は、弥生時代の流れをくむ土師器と、朝鮮半島から伝わった技術でつくられた須恵器とがあります。 いずれも、時代の移り変わりにしたがって形や種類が変化するため、古墳や住居の年代を決める一つの目安になります。

飛鳥・奈良・平安時代

飛鳥~奈良時代の宇都宮

○歴史上の時代区分では、大陸から仏教が伝わった6世紀半ばからを、都の置かれた地名をとって飛鳥時代と呼んでいます。 645年の大化の改新以後、日本の古代国家の形がしだいに整い、次の奈良時代になって確立するのです。

○しかし、7世紀になっても豪華な古墳がつくりつづけられたため、墓の規模を小さくすることや副葬品を禁止する命令が出されました。 しかし、宇都宮のような、都から遠くはなれた地方ではあまり守られなかったようで、立派な円墳や長岡百穴古墳のような 横穴群がつくりつづけられていました。

○701年の大宝律令が制定され、ついで、710年に奈良に建設された平城京に都が移され、律令国家の体制が確立しました。 大宝律令の成立に深くかかわった人物として下毛野古麻呂という人の名が記録に残っています。この人物は宇都宮南部出身の豪族と考えられていますが、 地方出身者としてはおどろくほどのの出世です。

○中央には二官八省が置かれ、貴族と呼ばれる大臣や高官が政治を行いました。地方は60あまりの国に分けられ、 都から派遣された貴族が国司となってそれぞれの国を治めました。これらの国は、五畿七道に分けられていました。

○栃木県は当時、下野国(しもつけのくに)と呼ばれ、七道の中の東山道に属していました。国を治める役所があったところを国府といいますが、 下野国府は現在の栃木市に置かれていました。国は、さらに (郷)に分けられ、 地方の豪族を郡司(ぐんじ)や里長(りちょう)に任命して治めさせました。

○下野国は9つの郡に分けられ、宇都宮の大部分は河内郡に属していました。郡を治める役所を郡衙といいますが、 最近の発掘調査によって、上神主・茂原官衙遺跡が河内郡の郡衙であったことがわかりました。当時の役所は、 瓦をふいた建物や掘立柱建物が立ち並ぶ立派な施設でした。宇都宮の水道山瓦窯跡では、国分寺や、 河内郡衙の瓦を焼いていたことがわかっています。

○このころの農民には、班田収授の法によって国から水田が与えられ、かわりに多くの税を納めるなど、 きびしい公民としての義務を強いられました。水田は碁盤の目のように区画されましたが、これを条里と呼んでいます。 農民はあいかわらず竪穴住居に住んでいました。山上憶良のよんだ貧窮問答歌には当時の農民の苦しい生活が表現されています。

○奈良時代には中央と地方をむすぶ交通網が整備されました。下野国には東山道が通っており、税の運搬や軍用道路として利用されたほか、 文化の交流を支える役割をはたしていました。宇都宮では、上神主・茂原官衙遺跡や東家・中島地区遺跡群上野遺跡で 東山道と考えられる道路の跡が発見されています。東山道には、30里(約16㎞)ごとに7つの駅家がもうけられ交通を支えました。 宇都宮には衣川駅家があったと考えられていますが、場所はまだはっきりとわかっていません。

平安時代の宇都宮

○京都に平安京がつくられ、都が移されたのは794年です。これから400年あまりを平安時代といいます。この時代のはじめは、 律・令をおぎなう規則であるを定め、地方の政治もひきしめられました。しかし、都の造営や東北地方への遠征で財政がきびしくなり、 しだいに地方政治もくずれていきます。

○朝廷では、9世紀のころから藤原氏がほかの貴族を退けて政治の実権をにぎり、摂関政治がつづきました。 また、11世紀後半には、天皇が位を退いた後も上皇として引き続いて政治を行う院政が行われました。

○地方の国では、自分の領地を守るために武装した武士が誕生します。武士は皇族や貴族の子孫をかしら(棟梁)とし、主従関係を結んで武士団をつくっていきました。 10世紀の前半、関東地方で平将門が乱を起こしたがこれをしずめたのも地方の武士団でした。 武士団には源氏平氏のように、都でも大きな力を持つほど成長したものもありました。

○下野国は、東北地方の豪族を押さえるために重要視され、下野薬師寺には、奈良時代に東日本で唯一の戒壇がおかれるなど、 文化的な拠点ともなりました。

○このころ、宇都宮の中心部は河原や沼・池が多い湿地帯で、池辺郷と呼ばれていました。二荒山神社のすぐ南には大きな池があり、 ここから神鏡が発見されたので鏡が池と呼ぶようになったと伝えられています。その西に残る池上町という地名はその名残だと考えられます。 二荒山神社は、平安時代のはじめには、下野国の中心的な神社として認められていたと考えられています。

○平安時代の後半、現在の宇都宮城址公園のあたりに、その後の宇都宮城の元になる館が築かれたといわれています。 築城者は、藤原秀郷とも藤原宗円ともいわれていますが確かな資料は残っていません。宇都宮系図の伝えるところによると、 宗円は1053年に陸奥国鎮守府将軍となった源頼義にしたがい都からやってきた人物で、 二荒山神社の社務職検校と宇都宮一帯の支配をまかされたとされています。それ以降、下野から常陸(ひたち)にかけての 鬼怒川流域の支配権を約500年にわたってにぎる名族、宇都宮氏になったというわけです。

○この時代の集落跡は、瑞穂野団地遺跡など宇都宮市内でもたくさん見つかっています。このころの竪穴住居は一辺約4mと小型ですが、 掘立柱建物や井戸も発見されています。また、住居跡からは紡錘車や鉄製の鎌・砥石などが出土していて、当時の生活の様子を知ることができます。

弘法大師の伝承の残る大谷寺は、平安時代のはじめごろから庶民の信仰を集めていました。 国の特別史跡・重要文化財である寺の本尊、千手観音像が彫られたのもこのころです。この時期は、 日光山を開いた勝道上人や円仁が活躍した時代であり、下野国でも仏教文化の充実した時期です。

鎌倉時代

鎌倉時代の宇都宮

○平安時代末期、壇ノ浦の戦いで平氏を、また、東北地方に勢力を持っていた奥州の藤原氏を滅ぼした源頼朝は、 1192年に朝廷から征夷大将軍(せいいたいしょうぐん)に任命されました。頼朝は鎌倉幕府を開き、 諸国に守護地頭を置いて武士の政治のもとを作りました。幕府が滅びるまでの約140年間を鎌倉時代といいます。

○鎌倉時代の『吾妻鑑』という書物に、「源頼朝は奥州藤原氏を攻めるにあたり、宇都宮の古多橋に宿泊し、 宇都宮大明神に参拝して戦勝を祈願した」という記録が残っています。二荒山神社は、いくさの神として各時代の武将達から崇拝されました。

○宇都宮の中心地は、鏡が池と呼ばれる水辺をはさんで北に二荒山神社を中心とする聖なる場所が、 南に宇都宮城を中心とする政治的な場所が向かい合っていました。その東を奥州に向かう奥大道が通り、 道に沿って宿が並んでいたと考えられます。

○宇都宮氏は、宇都宮城を拠点とし、宇都宮大明神(二荒山神社)の宗教的権威と神領の支配を通じて勢力を拡大していきました。 鎌倉時代には、評定衆引付衆を勤める幕府の有力な御家人になっていました。

○宇都宮氏は、下野から常陸にかけての領地のほかに、伊予(愛媛県)・豊前(大分県)の守護領や荘園をもっていました。 分家が増え管理する寺社も多くなったため、1283年、これらを治めるために70か条からなる弘安式条を制定しました。 これは、中世における武家法の草分けとされるものです。また、同じころ竹下町には芳賀氏の城として飛山城が築かれています。

○宇都宮氏の祖とされている藤原宗円から、3代目の朝綱のころには宇都宮氏を名のるようになり、 地名にも使われるようになったといわれています。宇都宮氏は22代つづきますが、この時代の城主の中には、 百人一首の成立にかかわった5代頼綱、元寇の際に日本軍の大将軍となった8代貞綱などがいます。

○頼綱が城主の頃、幕府から謀反の疑いをかけられる事件がおこりました。頼綱はやむをえず出家して蓮生と名のり、京都に住むようになります。 そこで歌人として有名な藤原定家と親しくなり、蓮生の娘と定家の息子は結婚して親せきとなりました。 当時、神社・仏閣や自宅のふすまに和歌を書いた色紙をはることがはやっていましたが、蓮生はこれを定家に頼みます。 このときまとめられたものが元になって、現在の小倉百人一首ができていくのです。

○宇都宮氏とその一族からは、多くの歌人が出ています。歌集『新○和歌集』は、一族のほかに鎌倉、 京都の歌人の歌もおさめられているもので、宇都宮一族の幅広い文化交流の様子を知ることができます。 このような、宇都宮一族を中心とする歌人集団は宇都宮歌壇とよばれています。 しかし、1333年に幕府が滅ぶと、宇都宮への文化的中継地を失い、また、戦乱の時代に、和歌に遊ぶ余裕もなくなって活動はおとろえてしまいます。

室町・戦国時代

室町時代(南北朝時代~戦国時代)

○鎌倉幕府が滅んだのち、後醍醐天皇が自ら政治をおこないましたが、不満を持つ武士を集めて兵をあげた 足利尊氏によって、わずか2年で失敗に終わりました。

○後醍醐天皇は奈良の吉野に移り(南朝)、尊氏は京都に別の天皇を立てて(北朝)征夷大将軍に任命され、室町幕府を開きました。 足利氏の幕府がつづいた約240年間を室町時代といいます。一方、南朝と北朝が各地の武士を味方につけて長い間争った期間を、特に南北朝時代といいます。

○このころの宇都宮城主は、9代 公綱です。公綱ははじめ南朝方について尊氏と戦いますが、 敗れてからは北朝方について全国を転戦しています。特に、楠木正成との戦いは書物『太平記』にもえがかれ、宇都宮氏は武将としてもその名を知られました。 また、10代氏綱は上野国(群馬県)・越後国(新潟県)の守護職にもなっています。

○この時代の宇都宮には、7代景綱・8代貞綱・10代氏綱のそれぞれの菩提寺である 東勝寺興禅寺粉河寺をはじめ、480の寺院が建ちならび、「香煙のために王地を覆うの感あり」といわれたようです。

○8代将軍足利義政のころになると、有力な守護大名が対立を深め、将軍家のあとつぎ問題もからんで戦いをはじめました。 1467年に京都でおこった応仁の乱です。守護大名が京都で戦っている間に、地方では家来が力を強め、領地をうばう者も出てくる 下剋上の世の中になると戦いは全国に広まります。100年もの間続くこの時期を、特に戦国時代と呼びます。

○戦国時代の宇都宮氏は、武田勝頼や小田原の 北条氏ら周囲の大勢力と戦ってよく防ぎ、町を焼かれることさえありましたが、 宗円以来、500年の歴史を持つ宇都宮を守りつづけました。

○南北朝から戦国時代は戦乱に明け暮れた時代でした。この中で生き残るため、平城であった宇都宮城は、 堀と土塁で幾重にも囲まれた大きな城郭(じょうかく)になっていきました。また、現在の宇都宮市内には、当時30を超える城が築かれていました。 多気城はその代表的なものです。

○室町時代には、銅や鉄をとかして型に流し込み製品を作る技術が全国に伝わり、下野国でも優れた技術者が生まれました。佐野の 天明の鋳物は有名ですが、宇都宮でも、 およりの鐘鉄製狛犬鉄塔婆汗かき阿弥陀など、この時代の特徴をもつ優品がつくられています。

○また、現在5月15日に二荒山神社で行われる田舞祭で奉納される 田楽舞は、1458年に7曲が演じられているという記録が残っています。 宇都宮氏の保護のもと、中世の文化が宇都宮で花開いていたことがうかがえます。

安土桃山時代

安土桃山時代

○戦国時代の終わり、織田信長が現れて安土城を築きます。その後、豊臣秀吉の全国統一を経て、江戸幕府が開かれるまでを安土桃山時代といいます。

○秀吉は、小田原北条氏を滅ぼして全国を統一しますが、その後宇都宮城に約10日間滞在し、関東・東北の大名配置を決めました。 これを宇都宮仕置(しおき)といいます。源頼義や源頼朝が東北地方を平定するにあたって宇都宮をおとずれ、 二荒山神社をお参りしたことにならって、宇都宮城を仕置の場として選んだのではないかと考えられています。 徳川家康伊達政宗をはじめ、東国の戦国大名が宇都宮城を訪れ、秀吉のさばきを受けました。

○このころの宇都宮城主は第22代国綱です。秀吉から一門格を表す羽柴の姓を送られ、 また、朝鮮出兵にも兵を率いて参戦しています。

○しかし、名族とうたわれた宇都宮氏は、1597年、秀吉によってとつぜん領地が没収され、国綱は追放されてしまいます。 おなじころ、宇都宮城以外の城も取り壊されたり使用が禁じられたりしました。国綱追放のときは、一人の家来もつきしたがうことを許されなかったため、 東勝寺など宇都宮氏とかかわりの深い大寺の住職がおともをしました。その後、これらの寺は急速に荒れはて、廃寺になったと伝えられています。

○追放の理由には、あとつぎ問題をめぐるもめごととか、検地の結果をごまかしたためだとかさまざまな説があります。 いずれにしても、口実さえあれば古い勢力を取りはらい自分たちの家臣を配置して支配を固めようという、豊臣家のねらいによるものだと考えられます。

○国綱追放の後、城代として宇都宮城をあずかったのは浅野長政です。 長政は豊臣政権を支えた五奉行のうちの第一人者で、宇都宮がいかに重要視されたかがわかります。

○翌年の1598年には、会津の蒲生秀行が宇都宮城主としてやってきました。 会津には越後から上杉景勝が移っています。また、この年に秀吉が亡くなっています。

○秀吉の死後の1600年、天下分け目の戦いといわれる関が原の戦いがおこりました。 その直前、徳川家康は小山に、後の2代将軍秀忠は宇都宮城にいました。家康に従おうとしない、 会津の上杉景勝を討つために出陣していたのです。しかし、石田三成が挙兵したという知らせを受け、2人は関が原を目指します。

○このとき、蒲生秀行ら下野の諸大名には会津への防備が命じられました。下野は石田三成と通じる上杉勢力との最前線だったのです。 秀行は町年寄を宇都宮城に呼び、3か条のお達しが言いつけられます。 これによって、9人の人質が差し出され、笠間城へ送られました。さいわいにも下野国には戦火はおよばず、人質も無事に帰されました。

江戸時代

江戸時代-1

○関が原の戦いに勝利した家康が、征夷大将軍に任命されて1603年に江戸幕府を開き、約260年にわたる江戸時代がはじまります。

○蒲生秀行は、関が原の戦いをはさんで3年半宇都宮城主をつとめる間、宇都宮城のつくりを強化し、 町西部の街道出入り口に木戸を設けて守りを固めました。また、蒲生家の出身地である近江国(おうみのくに)日野の商人のために 日野町をつくり、散らばっていた紺屋を集めて田川の東岸に紺屋町をつくりました。 江戸時代の宇都宮のまちづくりがここからはじまったのです。

○1601年、家康の孫にあたる奥平家昌が10万石で宇都宮城主に取り立てられます。 家昌の時代には、浄鏡寺台陽寺が建立され、興禅寺光琳寺が再建されました。 また、5・10の日には大膳市が開かれるなど、商業振興に力が注がれました。

○このころ、家康は奥州街道の整備をはじめましたが、これにあわせて、宇都宮の町が幕府の伝馬役をつとめるかわりに、 町にかかる税である地子を永久に免除しています。また、荒れはてていた二荒山神社を再建するために1500石の神領を寄進しています。 現在も残っている勾欄擬宝珠は、このことを示す貴重な遺物です。

○1616年、家康が亡くなり日光山に家康廟が建設されることになりました。その奉行となったのが、 後に宇都宮城主となる本多正純です。翌年、家康廟がほぼ完成すると、2代将軍秀忠が初めての日光社参を行うため 宇都宮城に宿泊しています。宇都宮城とその城主の地位の重要性を示す出来事です。

○家昌が亡くなると、その子の忠昌が城主になりますが、12歳と年少であったため1619年に古河へ移り、 代わって本多正純が15万5千石で城主となりました。正純は、城主であった期間は約3年でしたが、非常に大きな事業を成しとげた人物として、 宇都宮の歴史の中で語り継がれてきた城主です。

○正純の手がけた事業には、奥州街道の付けかえと日光街道の整備、 宇都宮城の大改築、 二荒山の丘陵の切り通し城下町の整備などがあります。これらの事業は、 1622年の家康の七回忌に間に合わせるために大急ぎで進められたようです。現在の宇都宮市街地の基礎がつくられたのは、まさにこのころなのです。

○1622年、2代将軍秀忠が日光社参のために江戸を出発します。秀忠は、往復とも宇都宮城に宿泊する予定でしたが、 帰り道、急に予定を変えて宇都宮城を避け、江戸に帰ってしまいます。その後、正純はとつじょ宇都宮城を取り上げられてしまいます。 はっきりした理由はわかっていませんが、家康死後の幕府内における権力争いによるものであろうと考えられます。 これが後に、有名な釣天井伝説を生むのです。最後は横手に流され、73歳の生涯を閉じました。

江戸時代-2

○本多正純に代わって奥平忠昌が11万石の城主としてもどってきました(第2次奥平氏)。 忠昌は、将軍でいえば秀忠・家光家綱の3代にあたる46年間城主をつとめます。 本多正純が着手した城の大改築や、城下町の整備が完成したころと考えられています。また、この間13回の社参がありましたが、うち10回は3代将軍となった家光でした。

○江戸時代の宇都宮は、奥州街道と日光街道の追分にあたり、 宇都宮城は日光社参における将軍の宿城としての役割をもっていました。 そのため、参勤交代などで宿泊する大名も多く、一般人の交通も急増したことから 宿場町としてたいへん栄え、 宇都宮はそのにぎやかぶりから「宇陽」とよばれました。

○忠昌が亡くなると2つの大事件が起きました。1つは、忠昌の家臣が殉死したことです。当時は殉死が禁止されていたため、 跡を継いだ昌能は責任を問われ山形に移されました。もう1つは、興禅寺でおこった 家老同士の刃傷事件が原因となって 江戸で仇討ち事件が起こったことです。これが有名な「浄瑠璃坂の仇討ち」で、赤穂浪士の討入りの参考にもなったといわれています。

○1668年、奥平家に代わって松平忠弘が15万石の城主となります。 その後、本多氏、第3次奥平氏、阿部氏、第1次戸田氏、松平氏をへて、戸田氏がふたたび城主になるまで宇都宮城主はひんぱんに交替します。 宇都宮は、かねてより東北地方の諸大名を押さえる上で軍事・交通上の重要地点でした。歴代の宇都宮城主は、 江戸時代を通じて譜代大名から任命され、中には、幕府の老中寺社奉行をつとめた者もありました。

○今に残る、最も古い城下図は忠弘の時期のもので、当時の城と城下町の様子がよくわかります。 城の本丸に将軍をむかえる御成御殿があり、二の丸には城主の御殿がもうけられています。 一方、奥州・日光道中の追分となる伝馬町周辺には、本陣問屋場旅籠が軒を連ねています。

○この時代には、二荒山神社の冬渡祭・春渡祭に城下の町内からちょうちんが、 また、曲師町からは児子唐人踊が出され、9月8日の大祭にも出されるようになったといわれています。 今につづく、いわゆる附祭のはじまりです。

本多忠泰の時代には、牢屋敷を松ケ峯門の南(現一条中学校)に移しています。 一方、あいつぐ自然災害には年貢を下げ、浪人を武士として扱うなど、領民から慕われたそうです。

○第3次奥平氏の時代は、元禄文化の華やいだ時代です。当時の記録によれば、 宇都宮城下の人口は9744人(男5254人、女4490人、武士を除く)だったようです。

○阿部正邦の時代には、ききんや大風雨が続きました。また、増加する城下の交通量を支える人馬の負担も大きく、特に農民の生活を苦しめたようです。

江戸時代-3

○戸田氏で、はじめて宇都宮城主となったのは忠真です。 忠臣蔵に登場する浅野長矩の後役として 勅使饗応役を務めた人物で、1710年に宇都宮城主となりました。また、幕府内においては老中を14年つとめています。 第1次戸田氏は、忠真から3代つづきますが、1749年に島原に所替えとなります。

○1728年、8代将軍吉宗が久しく途絶えていた日光社参を行っています。質素を心がけた社参でしたが、 行列の人数は13万3千人、人足22万8千人、馬32万6千匹という大行列で、幕府の権力の強さを示す大規模なものでした。

○戸田氏と入れ替わりで、島原城主であった松平忠祗が宇都宮城主となり、 次いで弟の忠恕が跡を継ぎます。 島原からの移転費用と、重なる自然災害が財政を圧迫し増税に踏み切りますが、これに対して農民の騒動が起こりました。有名な 籾摺騒動です。 さらに、釜川・田川の大洪水や城下の多くが焼失する大火も重なり、最も災難の多かった時代です。 1774年、松平氏と戸田氏はふたたび所替えによって元の領地に復帰します。

○宇都宮に復帰した戸田忠寛の時代は、幕府で 田沼意次が老中として実権をにぎっていた時代です。 忠寛は、幕府の高い役職を願い、財政的に恵まれた島原を捨て、江戸に近い宇都宮への復帰を願ったのだといわれています。 しかし、とちゅう大阪で旅費が不足し、江戸の豪商川村伝左衛門からの借金によって宇都宮に到着できたほどでした。

○1776年に、10代将軍家治の日光社参がありました。吉宗以来48年ぶりのことです。 忠寛は、接待のために巨費を使うことを惜しまなかったといわれ、寺社奉行、大阪城代京都所司代へと出世していきました。 しかし、田沼の時代が終わり松平定信が老中になると職をとかれ、 天明の大ききんやたび重なる大火あり、 それ以後の藩の財政を苦しめる借金だけが残りました。

○その後、忠翰・忠延の時代も苦しい財政状況が続きました。宇都宮藩では石高7万7千8百に対し、実際の収納は半分くらいの状態だったようです。 この時期は、ロシア人の千島・樺太あらしがあり、宇都宮町出身の浪人学者であった蒲生君平が国防策を説いていたころでした。

○1823年、忠温が城主となります。忠温は、寺社奉行・老中へと出世しますが、 老中水野忠邦が幕府の権威を回復するために行った12代将軍家慶の日光社参もあり、多額の出費が重なりました。 一方では、20年以上中断していた鉄砲のけいこを江戸で行い、間瀬忠 至を家老に登用し、 江戸の有名な攘夷論者であった大橋訥菴を藩校修道館に招いて月1回の講義を行うなど、 忠温は、幕末をむかえる多難な時局にふさわしい活動を行いました。

幕末から戊辰戦争

○1853年、ペリーの率いる4隻のアメリカ艦隊が浦賀に来航し、開国を求めました。いわゆる黒船来航です。 幕府は、これまで200年以上つづいた鎖国をやめて世界各国との貿易をはじめましたが、国内では、 長州藩薩摩藩 を中心に尊王攘夷の考え方が広がりをみせ、 のちに倒幕運動へと発展していきました。

○このような動きの中で起こったのが、1860年の桜田門外の変、1862年の坂下門外の変です。 いずれも、時の老中を襲撃し暗殺しようとしたものですが、特に坂下門外の変は、宇都宮・水戸の藩士ら6名によるもので、 これに関係したとして児島強介菊池教中らが捕らえられました。また、大橋訥菴も別の企てで捕らえられましたが、 この事件の首謀者としても幕府から厳しい取調べを受けています。

○坂下門外の変は宇都宮藩に大きな衝撃をもたらしましたが、家老の間瀬忠至と、中老県六石が藩の存続をかけて強力に進めたのが、 蒲生君平の足跡を受けついだ山陵修補です。忠 至は戸田に改姓して山陵奉行となり、 1862年に神武天皇陵から始まったこの事業は3年後に終了しました。のちに忠至は、この功績によって宇都宮藩の高徳(現藤原町)1万石を分け与えられ、 徳川幕府最後の大名に任命されました。

○この間、国もとの宇都宮では、1864年に筑波山で挙兵した天狗党事件に巻き込まれました。 このときの対応の悪さが幕府の怒りを買い、藩主戸田忠恕は隠居・謹慎、戸田家も棚倉への領地替えという、 藩始まって以来の危機に直面したのです。しかし、これもまた、山陵修補の功績によって中止されたのです。

○1867年、江戸幕府15代将軍徳川慶喜は朝廷に政権を返上しました。大政奉還です。 朝廷はただちに王政復古の大号令を発布し、徳川家の将軍職と領地を没収したため、徳川方はこれを不服とし武力衝突に発展しました。 この、翌年1月3日に起きた鳥羽伏見の戦いから、翌年5月の函館戦争までの戦いを戊辰戦争といいます。

○同じころ、国内の争いや開国後の物価高で、社会不安が高まりました。各地で「世直し」をとなえる 百姓一揆打ちこわしがおこりましたが、宇都宮でも、問屋や本陣、質屋、酒造家などの商家が攻撃の目標とされました。

○多くの大名が新政府支持に回ると、1868年4月11日に江戸城は無血開城されました。宇都宮藩など北関東諸藩の多くも新政府方についています。 新政府の措置を不満とする旧幕府兵は、江戸を脱走して周辺地域で抗戦していましたが、その中でも主力部隊だったのが、 日光を目指して北上した大鳥圭介の軍勢です。このとき、新撰組副長であった土方歳三は、 大鳥軍の参謀として宇都宮城攻撃を担当しています。

○4月中旬から5月初旬にかけては、下野を中心に激しい攻防が繰り広げられました。特に、軍事的に重要な宇都宮城をめぐる攻防戦 で激戦が展開されました。この戦いにより、宇都宮城と2400件の家屋が焼失し、死傷者は300人以上、被災者も1万1千人を超えたといわれています。 まさに、一つの城下町が焼失したのです。

明治・大正・昭和時代

明治時代-1

○1867年に発足した明治維新政府は、戊辰戦争のかたわら着々と中央集権の体制をつくっていきました。 1868年に年号が明治に改まると、1871年には廃藩置県がおこなわれ、3府72県が置かれました。 このときに、宇都宮県が誕生しています。

○これとともに、四民平等が唱えられ江戸時代の身分制度も改められました。 しかし、皇族・華族といった特別な身分が設けられる一方、差別されてきた人々の人権回復や、 実際の生活を向上させるための政策は不十分なものでした。

○1872年、戊辰戦争で焼け残った宇都宮城の櫓や門が、払い下げられたり壊されたりし、 一方、県庁や病院、郵便局、東京鎮台の駐屯地などが次々と建設されました。戦災後の宇都宮に、近代のまちの姿があらわれはじめたのです。 また、この年には学制が発布されて藩校の修道館は廃止となり、翌年には6校の小学校が設立されました。 また、これらが統合され、1878年に西校、翌年には東校が開校しました。

○明治政府は、殖産興業を進め資本主義の育成に努めました。 官営のものでは1872年設立の富岡製糸場がありますが、その前年、川村伝左衛門が現在の石井町に大嶹商舎を設立しています。 これは私設の工場でしたが、米国前大統領グラント将軍など内外の指導者が訪問するなど、明治初期の模範工場として認められました。

○1873年2月、二荒山神社が国幣中社から県社に降格となりました。 二荒山神社が延喜式神名帳に記された下野一ノ宮であるという確証がないというのが理由でしたが、 実際には日光二荒山神社との社格争いが原因でした。宇都宮藩の重臣として幕末に活躍した県六石らは、 これを宇都宮の歴史的名誉を傷つけるものとして社格回復運動を展開し、1883年に国幣中社の栄誉を回復することに成功しました。 翌年の3月の臨時大祭は「ひっくり返るような大祭礼」といわれるほど盛大なものでした。

○このころの宇都宮県は、現在の栃木県の北半分を県域にしていました。 しかし、1873年6月15日に宇都宮県は廃止され、栃木県に組み入れられることになりました。県庁は栃木町にあったため、 その後、1884年に宇都宮町に県庁が移転するまで、宇都宮は県政の中心から外れることになったのです。

○県庁の移転運動は1882年からはじまりました。論点としては、宇都宮が県の中央に位置していること、 道路網が宇都宮を中心に四方八方に伸びていること、県北東部の開発に便利であること、宇都宮には軍隊が駐屯していることなどでした。 また、市場取引高を見てもけた違いに宇都宮がまさっており、町民感情としても移転運動は盛り上がりを見せたのです。 はじめは栃木町の根強い反対運動もありましたが、1883年に三島通庸県令となると、 おどろくほどの速さで移転が決定されました。

○県庁の新築工事にあわせて、大通りの貫通工事や諸官庁、学校などが整備され、 宇都宮は名実ともに栃木県の政治・文化・経済の中心地となったのです。三島県令時代は2年足らずでしたが、 江戸時代の本多正純とともに宇都宮の町並みを一変させた人物でした。

明治時代-2

○1885年、埼玉県大宮駅から宇都宮までの鉄道が開通し、宇都宮駅が誕生しました。当時、宇都宮駅は停車場とよばれていましたが、 翌年には日本最初の駅弁が白木屋によって発売されました。この路線は、1891年には青森まで開通し、1906年に国有化されました。 また、日光線は1890年に全線が開通しています。

○これ以外にも、1896年には大谷石の輸送と観光開発を目的とした宇都宮軌道運輸株式会社が、また、1898年には野州人車鉄道が設立され、 人車鉄道(トロッコ)が走るようになりました。1906年にはこの2社は1つになって宇都宮石材軌道株式会社となり、 荒針・新里・徳次郎の3路線の営業をおこないました。

大日本帝国憲法が発布された直後の1889年4月1日、市制町村制が施行され、宇都宮町と、 旧宇都宮市を形成する11か村が誕生しました。宇都宮町では、町会議員選挙が行われ30名の議員が、 また、その中から町長に矢島中、助役に田中勝次郎が選ばれました。翌年、収入役に松井元儀が選ばれ、22名の吏員が任用されました。 宇都宮町役場は、現在の中央3丁目に置かれました。

○1892年、それまで陸軍用地となっていた宇都宮城跡が払い下げになりました。 本丸は旧城主の戸田家に、二の丸は士族一同に、三の丸は町有になりました。 1890年になって、三の丸の土手をくずして三日月堀を埋め、二荒山神社前通りを延長して御橋をかけ、本丸に真っすぐ通じるようにしました。 この年には、曲師町・江野町・材木町を結ぶ、現在のオリオン通りユニオン通りが開通になりました。

○この時期の宇都宮では、企業熱が盛り上がった時期でした。特に、1896年に宇都宮銀行が設立されて金融活動が円滑になると、 株式会社をはじめ、たくさんの企業が誕生しています。国重要文化財の旧篠原家住宅は、 1895年に建てられたこの時期を代表する商家建築ですが、 同様の豪壮な建築物がほかにも見られました。

○1896年4月1日、宇都宮はになりました。 初代市長は町長であった矢島中でした。当時の人口は約35233人、戸数6991戸でした。 市長の選出は、市会が候補者3名を国に推薦し、その中から内務大臣が決定する方法がとられていました。

○明治時代の日本は、欧米の列強に遅れまいと海外への進出を図っていました。1894年の日清戦争では約100名、 つづく1904年におこった日露戦争では、 654名の出征者が宇都宮市から出ています。 日露戦争による軍備拡張により、陸軍第14師団が福岡県の小倉で編制され満州に出兵していましたが、 戦後、正式な駐屯地が宇都宮に決定され、1907年から次々に施設が建設されました。14師団が直接市内に落とす金額は、当時の市一般会計の5倍にあたり、 市の商工業界に大きな影響を与えました。ここに、宇都宮は「軍都」という新しい顔を持つことになったのです。

○1908年に14師団が宇都宮にやってくると、材木町から西へ大谷街道が開通し、 さらに野砲兵第20連隊から師団司令部までの約1.4キロメートルに、 軍道と呼ばれる道幅10間の道路が開通し、両側に約1000本のサクラが植えられました。

大正時代

○大正時代に入ると、列国の帝国主義政策が衝突して、 1914年に第一次世界大戦が起こりました。 日本も、日英同盟を理由に参戦しドイツと 戦っています。この時期の日本は、中国政府に二十一か条の要求を突きつけたり、 1917年に起こったロシア革命を妨害するために、 イギリス・アメリカ・フランスとともにシベリア出兵をおこなったりするなど、 中国大陸に勢力を伸ばす動きを起こしました。

○大正時代には、水道やガスが普及し都市生活が大きく変化しました。また、自動車交通が飛躍的に進展し、陸上輸送に大きな変化を見せ始めました。

○宇都宮は、豊富な地下水がある一方、上町に比べて 下町は不良水であったため、チフスや赤痢の流行に悩まされていました。 また、釜川の水量は少なく、火災の被害も大きかったため、明治時代から水道をひくための議論が行われていました。 足かけ4年にわたる大工事のすえ、大谷川を水源とする水道が完成したのは、1916年のことです。 これにより、全戸数の32%が水道を利用するようになりました。

○第一次世界大戦で直接の被害を受けなかった日本は、海外への輸出が伸びたことから空前の好景気となりました。 しかし、国内では品不足による物価高が続いて人々の生活は苦しくなり、 全国的に米騒動がおこりました。 宇都宮でも、1918年1月に1石15円の米が、7月には30円を越すといった値上がりを見せています。

○このような中で、1923年9月1日、関東大震災が起きました。 東京・横浜では大規模な火災が発生し、死者・行方不明者が14万人を超えました。この大災害の中、 大谷石で建築された東京の旧帝国ホテルが焼け残り、 大谷石は、その耐火性・耐震性の優秀さが認められ、第一級の建築材として一躍有名になりました。

○大谷石採掘の歴史は古く、奈良時代の795年に建立された下野国分寺の土台にも使われています。江戸時代には、 本多正純の宇都宮城大改築にも利用されたほか、商店の石蔵や釜川の護岸に用いられている様子が『宇陽略記』に描かれています。 また、鬼怒川を利用して江戸へ輸送され、隅田川沿いには大谷石をあつかう問屋が16軒あったといわれています。 明治に入ると、鉄道の開通など陸上交通の発展にともなって販売網は関東一円に広がりました。 しかし、大戦後の不況の中、職工たちは大谷石石材労働組合を組織してストを決行し、深刻な労働争議に発展しました。

○大正時代には、大通り沿い蔵造りの店が並び、1925年には、上野呉服店が東京風の百貨店形式の店を相生町に新築し、 バンバのにぎわいともあいまって二荒山神社前が最大の繁華街になりました。また、乗合いバスやタクシー乗務員の洋装が人気を集め、 このころには、軍道のサクラも成長し市内随一の名所になりました。

○大正15年、市制30周年祝賀式が行われ、八幡山では東洋花火大会が開催されて三尺玉を打ち上げました。 この年の人口は72238人、戸数15525戸となり、30年で倍増していますが、一方で、さまざまな都市問題を引き起こすことになりました。

昭和時代-1

○第一次世界大戦後の1920年、ふたたび戦争が起こらないよう各国が協力して平和を守るための国際連盟が結成されました。 しかし、深刻な世界恐慌がおこり、各国の経済が行きづまると、ふたたび戦争の影が忍びよって来ました。

○日本では、財閥が資本力の弱い銀行や会社を合併し、各種の産業を独占していきました。 また、大陸への勢力拡大をねらっていた軍人や資本家たちは、このころ進められていた軍縮に批判的になっていました。

○宇都宮では、昭和になると国から都市計画法の指定を受け、本格的な都市づくりに取り組みました。 そして、商業(消費)都市から工業(生産)都市への脱皮をめざし、道路・住宅・公園などの環境を整備する一方、工場を誘致しようとしたのです。

○市の中央部にあった刑務所が移転して跡地が東武鉄道に払い下げとなり、1931年には宇都宮・栃木間に東武宇都宮線が開通しました。 また、この年に陽西土地区画整理組合・陽南土地区画整理組合が、 1940年には陽北土地区画整理組合が設立されて新しい住宅開発が進められました。大通りが舗装され街路樹が植えられたほか、 現在の東京街道が開通しました。八幡山公園ができたのもこのころです。 この時期は、宇都宮商工会議所カトリック松が峰教会宇都宮聖ヨハネ教会など、 洋風建築物も次々につくられていきました。

○こうした中、1931年に満州事変が起こり、日本は国際連盟を脱退して世界から孤立していきます。 1936年の二・二六事件により軍部が政治上の発言力を強めると、翌年には日中戦争が始まり、 国家総動員法のもとで戦時体制がつくられていきました。

○当然のことながら、宇都宮も戦時色が濃くなっていきます。1937年には関東防空演習があり、これに参加した宇都宮の夜は、 初めて灯火管制により黒一色になりました。1940年に、14師団が満州のチチハルに移駐されると、かわって 陸軍第51師団が編制されました。翌年には、大政翼賛会宇都宮支部が発足するなど、国力の全てが戦争に向けられていきました。

○中国との戦争に行きづまった日本は、1940年に日独伊三国同盟を結び、東南アジアへの侵攻をねらいます。そして、1941年12月8日、太平洋戦争に突入したのです。

○宇都宮では、1940年に米の配給がおこなわれ、砂糖・マッチ・味噌・醤油・衣類・燃料へと拡大されました。翌年には、 銅や鉄などの金属回収が全国にさきがけて行われています。また、戦争により軍需生産に力が注がれると、生産都市への転換を図り、 中島飛行機宇都宮製作所をはじめ、多くの軍需工場の誘致を進めます。

○宇都宮には、軍事施設も次々に造られています。1940年、宇都宮陸軍飛行学校が発足し、翌年には清原村に航空廠を併設した 陸軍宇都宮飛行場が完成します。1945年に入り、米軍機による地方都市や工場などをねらった空襲が激化すると、 高射砲部隊が宇都宮に派遣され、八幡山には師団の地下司令部建設が進められました。

昭和時代-2

○1945年2月10日、群馬県の中島飛行機太田製作所が米軍のB-29爆撃機部隊の空襲を受けました。 この空襲では、となりの足利市にも多量の爆弾が投下され、30人を超える死者が出ています。 太田爆撃後のB-29編隊は、宇都宮上空を東に進んで太平洋へ抜けました。このとき、残っていた爆弾と焼夷弾が投下され、 平石村の雷電神社付近に大きな穴があきました。多くの宇都宮市民が、B-29と空襲の恐ろしさをはじめて目の当たりにしたのです。

○宇都宮にある施設を攻撃目標とした空襲は、2月16日の米軍艦載機によるものが最初でした。 これは、陸軍宇都宮飛行場に対するものでしたが、翌17日には市街地に近い上空で疾風1機と米軍機3機の空中戦が行われ、 多くの市民がこの様子を目撃しています。このような、艦載機などによる飛行場・軍需工場・交通機関への攻撃は、終戦まぎわまで何度も繰り返されました。

○そして、7月12日23時19分、B-29による宇都宮空襲が開始されたのです。この空襲で投下されたのは、 M47焼夷爆弾E46収束焼夷弾です。E46は、投下後ある一定の高度で、 中から38個のM69焼夷弾が分かれて落下する仕組みでした。深夜の空襲は2時間を越す長い時間にわたり、避難と消火活動は困難を極めました。

○つぎの朝、市民が目にしたのは、焼け野原になった宇都宮です。現在のJR宇都宮駅から東武宇都宮駅の間はほぼ壊滅状態となり、 死亡者数620名以上、負傷者数1128名以上を出すという大きな被害を受けました。この空襲は、古い町並みと貴重な文化財を焼失させ、 市民生活に大きな打撃と混乱を与えたのはもちろん、長期にわたって心身に傷跡を残しました。

○沖縄戦や都市空襲、広島・長崎への原爆投下を経て、日本はポツダム宣言を受諾し、8月15日に終戦を迎えます。 日本は、アメリカ軍を中心とする占領統治下に置かれることになりました。

○宇都宮には、10月に進駐軍がやってきました。戦後の、膨れ上がった失業者、猛烈なインフレ、危機的な食糧難の中、 宇都宮にとって最大の課題は戦災復興でした。宇都宮市が優先して行ったのは、 清掃・金属回収・水道施設の復旧・住宅対策の4事業でした。また、市内の国民学校10校中6校が焼失していたため、学校の復旧も急がれました。

○終戦に至るまで、軍の施設と軍需工場があったことで、宇都宮市と周辺の村は共に成長してきたともいえます。 戦後、宇都宮市は数回にわたって隣接地域を部分的に編入してきましたが、1953年に施行された町村合併促進法により、合併が一気に加速します。

○1954年には、平石清原横川瑞穂野城山豊郷国本富屋篠井の9村を、翌1955年に雀宮町・ 姿川 村を合併しました。

平成時代

○2007年、上河内町・河内町と合併して、現在の宇都宮市を形成することになったのです。